全ては一つ。で済んだらこの多様性の世界は成り立ちません。抽象度を高くする前に大事なことは「違い」を理解する事。自分を生きるってその最たるもの、それが人生の醍醐味です。
テーブルの真ん中にりんごがある。自分の向かいに友達が座っている。二人とも同じ場所で同じりんごを見ている。と思うでしょう。これで通じるでしょう。でも本当は同じりんごの別の側面をそれぞれが見ているんです。りんごの形を知っているから全体像は推測できるでしょう。上からのぞいたり、斜めから見れば、小さなものでしたら全体が見えますものね。これがりんごではなくもっと大きなものが二人の間にあったとしたら、相手が見ている側面と自分が見ている側面は違うと分るはず
向かいにいる人の顔が見えているのは自分。その背面も見えますよね。相手が見ているのが自分の顔。お互いに見ている世界は逆なんです。
隣同士になって同じ方向を向いたとしても、全く同じ位置に視点が重なることは出来ません。隣にいる人の姿が視界に入る。自分の顔は鼻や頬のあたりがかろうじて見えるだけ。鏡を見ない限り、他人には見える自分の背中や顔の正面は見えないのです。
自分の事は自分が一番分からない。これは他人が見ている自分のこと。向かい合っている人が見ている自分がどのように見えるのか、どのような人間だと思われるのか?それは自分ではわからないということ。
他人からどう見られているか。ほとんどの人はそれを気にして生きています。自分自身には見えない自分、仮想の自分を生きている。
自分の内面、考えていること、五感で感じていること、これは他人に同じように分かることは決してありません。特に「視野」「視線」を本人と全く同じに感じ取ることは絶対に不可能なのです。瞳孔こそあなたが世界を覗いている穴なのです。
相手の立場になってものを見る。向かいに座っている人の位置になってみて、感じてみる、考えてみるというワークなどもありますが、あくまでも「推測」の域を出ません。相手が何を見ているか?その人が何を考えているのか、どのような経験、記憶を持ってどのような体感をもってどこを向いているのか、何を思っているのか。それがその人の目前の現実を作っているということ。
同じ場所にいる人それぞれが、年齢から経験してきたことから全て違うのですから「同じ瞬間にこの場にいるように感じるけれど「同一の時空間に存在しているわけではない」ということなんです。
時を超えた場が瞳孔の奥、私たちの意識の本拠地。そこは三次元ではありません。意識は体の中、頭の中にあるのではありません。時間を「感じる」昨日と今日、未来と今を繋ぐものとして人間の意識があると思ってください。
時間、日付は人間社会の一つの物差しとして機能しているだけ。全ては同時に存在しており、なおかつ流動しています。動いている。回転している。意識の焦点が当たった時「止まっている物」と認知出来るだけなのです。
夢の世界に、過去から未来へと流れているような時間軸がありますか?場面はいきなり変わるし脈絡のない出来事が起こる。それを何の疑問もなしに見ていませんか。たまにこれは夢だ!と気づくことはありますけれど。壁抜けも出来たので、夫を呼んで、これは夢の世界なんだよ、今壁抜けやってみたら出来た。見てて。と言って壁を抜けようとしたら今度は起きてる時と同じく「ゴッ」と壁にぶつかった。痛い。あれー変だな、なんて。
これも「夢だから」で片づけていいのでしょうか。夢の中で自分の意識がある。ここに明確な時間軸が存在しない。そして目覚めた時に、目の前に見えていたリアルな世界がスーッと小さくなって立体の世界が平面になりやがて点になって消えて行った。
この「点」の向こうにも世界がある。別の意識次元(場)が存在しています。見上げる空、天空そのものが、私を向こうから見つめている。私は宇宙そのものでもあるわけです。
ミクロとマクロ。時間と空間。自と他。すべては対であり、同時に存在しつつ、人間世界では時差があり、その時差すらも「個人差がある」ということです。
一人一宇宙。インナーユニバースとは、同一時空間に他者は本当の意味で存在不可能。ということです。他者を感じることは出来ます。コミュニケーションを交わすことが出来る。共振共鳴も起こる。それは自分が感じること。他人が感じているであろうことを自分がそのように感じているだけのことなのです。
他人と意見をすり合わせる必要も、他人から奪う必要もなく、自分が本当にやりたいことは出来る。自分の宇宙という現実は自分が作っているからです。同一の場所で限りある資源を分け合っているのではありません。持つ者と持たざる者がいると信じ込んでいる他者がいるだけ。それは自分とは違う次元に生きる人なのです。
願いは既に別次元で「今」叶っています。叶えようとするのではなく味わうため、実感するために行動する。それが人間の人生です。
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